ゆる言語学ラジオですっかりファンになった(いや「推し」か)久保(川合)南海子先生。
「推し」の科学も読んだけれど、今読み終わった「イマジナリー・ネガティブ」の話。
プロジェクションは、こころの動きを行動から読み解ける感覚があって今一番おもしろいと感じている。
性そのものによる差、というよりも女性/男性としての社会規範による差
一番興味深いと感じたのは「ジェンダーにまつわる思い込み」の部分。
誰かに、ではなく自分自身の持つ社会規範にとらわれる
周りは理解してくれないという話ではなく、久保先生自身が自分に「重い病気の子どもがいるお母さん」という表象を投射していたために、復職のことを口にできない・仕事のことを意識するだけで後ろめたい気持ちでいっぱいになるという話。
周り(先生の夫、上司)は「せっかく得たキャリアをなんとかして継続する研究者」という投射をしていた。
家族などがギャップのある意見を押し付けてくるのではなく、「社会的に望まれていないこと」をしているのではというとらわれ。
「ちゃんとした」母親という呪縛、こういうことが求められるのではという社会規範(として認識しているもの)に抑圧されてしまっているという視点。
自分が男性・父親として「ちゃんとした」父親を意識すると、妻や子どもにしっかりと向き合って時間を使うという面と、社会的に成功している・収入が多い、という「強さ」みたいなものがないといけないというイメージはありそう。
考えただけでツラくなってしまう...
性差による食い違いと思っていたものは、女性/男性に対する社会規範の差?
個人としては性差を感じていないが現代の社会では女性・男性はこのように思われている。この感覚は確かにありそう。
個人としては全然問題ないと考えている。しかし、社会的に見た時にこういう振る舞いが望まれていないと思うので、その振る舞いをすることができない。
これは、本人と周囲で認識が違うポイントになりうる。
周りからの方が社会とは切り離した個人として見ているが、本人は社会規範の中にいる自分として捉えて考えてしまう。
この書籍の例では、周囲のおかげでそういうとらわれ方をしていたことに気づけたという内容だったが、周囲が正論を投げかけても本人がなかなか納得できない場合にはこのような社会規範との折り合いがつけられないという要因がありそう。
例えば、周りからするとなんで躊躇しているかわからないという時、「言っていることはわかるし、そのとおりと思う。だけど、実行ことに抵抗がある」というときに課題になっているのは理論的な話ではなく感情的な話、といったまとめ方になりそうに思う。
けれど、それぞれが持っている社会規範のズレにより、気にしないといけないポイントがズレているのかもなと思った。
この時、社会規範はソースのない「虚投射」しているものと思うのだけど、虚投射は人からは見えないので気づきづらい。
だからこそ、そういうズレやすいポイントがあることを意識できると話がしやすくなったりしそうだな〜と感じる。
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社会規範を考える時、男性が考える女性の社会規範・女性が考える男性の社会規範にズレがあるのかな、そこがすれ違いの原因だとした場合どうしてもわかりあえないのかな。
そのあたりにヒントがありそうな気はするけれど、そんな簡単な話じゃないよね、という予感もする...
とはいえ、変に相手の気持ちになって考えろ、の新しいパターンを増やすだけになってしまうと余計にわかりあえなくなっちゃいそうですね。