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ああでもない、こうでもない

「暇と退屈の倫理学」を読んだ / 退屈と戦う準備ができたかも

2026-08-05

家族との時間をつくるために、仕事の調整がある程度できるようにと考えて現職場への転職をしましたが、そう書くと聞こえはいいのですが、実際にはそこにうっすらとした後ろめたさがある。
それほど求められるほどのスキルなどがあるわけでもないのに、暇のほうを先に取りにいっているのではないか、みたいな。

『暇と退屈の倫理学』を読んでいて、三章のヴェブレンの昔の有閑階級は暇を誇示したという話。働かなくていい身分の証明として、暇は見せびらかすものだった。

今は逆で、忙しさのほうが誇示の対象になっている。「最近忙しくて」が挨拶として成立する。
だとすると、自分の後ろめたさは自意識の問題というより、暇を持つには資格が要る、という話として捉えてしまっているのかも。
これは誰かが言っているわけでもなく、たぶん誰も言っていなくて、自分が勝手にその枠組で捉えてしまっているのか?

新たに得た概念

本については、「本来性なき疎外」「消費と浪費」「環世界」「ハイデッガーの退屈の3形態」あたりが今までに持っていない概念で面白かった。
疎外の意味合いがなかなかピンとこなかったけど、「人が自分の生を自分のものとして生きられていない状態」のはず。

本来性なき、ということは「自分の生を自分のものとして生きるためにはこうすべき(過去のこの時の状態のような)」というものがない状態。

消費と浪費、浪費を進めていてその結論として贅沢をしろと。
浪費はなにかを受け取るので、どこかで満足となる。消費は制限がないので、いつまでたっても満たされない。

環世界、とりまく環境のルールと行動様式、のようなイメージ。
環世界を気軽にいったり来たりできるのが人間である所以だが、それによってそうせざるを得ないというような「とりさらわれ」が起きにくく、自分の中に選択権があるように見えるが選べない状況が退屈につながっていく。

ハイデッガーの退屈論は、メイントピックになっている第二形態の、パーティーに楽しく参加したけれど、その場では退屈だと思っていないのに、帰ってきて振り返ると退屈していた、と気づく感覚。
あーそれそれ!とまでいかないけれど、知っている感覚のような気はしていてムズムズする。

気づき

それらの考え方を得ることで、退屈というのはどういうものなのか、なぜ退屈が絶えられないのか、自分が取りうる態度にはどういうものがあるのか、が少しわかったような気がする。

歯切れが悪いのは、具体的にこうすればよいのだというまとめはできなかったから。
具体的な処方箋ではなく、相手をよく知り、こういう態度で望むべきといった「戦い方」を教えてくれるような本だった。
結論のひとつが、この本を読んだことであることはそういう意味で納得。
「結局は人それぞれ」と乱暴にまとめたくなりそうなところを、投げ出さずに書いているところにめちゃくちゃ誠実さを感じました。

自分が感じている後ろめたさははっきりわからないけれど、仕事を重要視する価値観の中で、暇を作った結果として「仕事に還元できていない」というところにうしろめたさがありそう。
実際には存在しない「仕事に還元すべき」のような本来こうあるべき(と思い込んでいる)ものにとらわれてしまっているのかも。

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